イラン動乱で思い出したファラ王妃|ジャクリーンと並ぶファッションリーダーだった

間抜けな記事タイトルですが(>_<)
イラン動乱で思い出した素敵な方の話です。
1960年代かな、イランの王妃がジャクリーン・ケネディと共にファッション誌によく取り上げられていました。独特なオーラを放っている方で、イラン王妃というお立場上、そのファションは独特でしたが、ジャクリーンを凌駕する存在感がありました。

当時、中学生でしたが、ファションに興味を持ち始めた頃で、ファショナブルな写真を熱心にながめていました。ファションへの興味は自分が装うのではなく、デザインする方に興味がありました。

右のジャクリーンさんはまるでバービー人形のようですね。↓のウェディングドレスはイブ・サンローランのデザイン。

どでかい宝石が使われたティアラ、ネックレスに負けない存在感。凄い。

革命で国を追われる際、価値あるものすべて国に残し、持ち出したのは好きな本、アルバム。そして瓶に入れた「土」だけだったそうで、国王が埋葬される棺のなかに入れられたたそうです。
「どれもすべて私に作られたものではなく、イランに作られたものだ。」と。王妃は美術品や歴史遺産を収集して保存することにも熱心でした。
これらの宝物はイラン国立銀行の地下金庫に保存され、「宝石博物館」として展示されています。

アメリカを訪れてアンディ・ウォーホールなどとも親交があり、モデルになった作品がいくつかあるようです。

 

国王は国を逃れてからすぐに亡くなったと記憶していますが、王妃については全く知らないので、調べました。

まだご存命で、80代後半。ワシントンとパリを行き来して「イランの文化遺産の保護」を国際的に訴える活動をしておられるそうです。ちなみに資産は一億ドルとか。海外資産があったから持ち出す必要もなかったのでしょう。

イランの祝祭日などにSNSを通じて「希望を失わず頑張って。」とメッセージを発信しているそうです。(今回の動乱の前から)

【ファラ王妃の生い立ち】
王族の出身ではなく、父は軍人。9歳の時に父親が病死。母と叔父によって育てられた。
テヘランのフランス系学校で学んだ後、建築学を志してパリに留学。当時、イラン人女性が単身でパリへ建築を学びに行くのは非常に珍しかった。
1959年、パリを訪問中だった国王モハンマド・レザ・パフラヴィーが、現地のイラン人留学生たちと面会する機会があり、国王はファラに一目惚れした。 当時、国王は2度の離婚を経ており、若く健康で、かつ洗練されたファラは理想的な結婚相手だった。数カ月後、結婚した。
【亡命後】
息子二人、娘二人の四人の子供に恵まれたが、亡命後の生活で環境に馴染めず、心を病んだ子供が次々と自死するという悲劇に。(次男と次女)

Geminiが教えてくれたエピソード。

王妃はジーンズで貧しい村々に出かけて、村人と同じ地面に座り、直接彼女たちの悩みや健康状態、子供たちの教育について聞き取ったのです。これは当時の伝統的な社会では驚天動地の出来事でした。

彼女は石油の富を使い、ピカソ、モネ、ウォーホルといった世界的な巨匠の作品を買い集め、「テヘラン現代美術館」を設立しました。革命後、これらの「西洋的」な絵画は地下倉庫に封印されました。

彼女は決して人前で取り乱したり、現政権を罵倒するような下品な言葉を使ったりはしませんでした。 常に落ち着いた、知的な語り口でイランの未来を語り続けるその姿に、現体制を支持しないイラン人たちさえも「彼女こそが真の皇后だ」と尊敬の念を抱いています。

 

素敵な女性なんですね。

革命が起きる前のイランは「脱宗教」を掲げて、西欧化に力を注いでいましたから、中東では最も西欧に近い、開かれた文化でした。ファラ王妃がそうだったように女性たちはミニスカートやジーンズなどのファッションを楽しんでいました。革命以降、それが禁じられて女性は男性の所有物の扱いになっています。自由を謳歌した経験を持つ女性たちにとっては過酷な現状です。同じ女性として気の毒でなりません。今回の暴動が良い方向に向かうことを祈っています。

ファラ王妃の自叙伝があります。これは孫娘に「私プリンセスって呼ばれるけど、それが何かわからない。」と言われて、書く気になったそうです。※翻訳本なし

※正式名称は”Empress Farah Pahlavi”なので”ファラ・パフラヴィ皇后”とすべきですが、ワタシ的記憶では”王妃”なので、こちらで通しました。

 

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