先日、たまたま見たNHK総合の「追跡記者のノートから」という番組。
途中から見たのですが、シニア女性数人が同級生の死についてあれこれ語っています。「誰のことを話題にしているのかな…」と見続けていると、半年ほど前に笹塚のバス停で暴行され亡くなられた方のことでした。
後味の悪い話でした。
被害者の同級生(高校か、中学かは不明です)だった女性たちがそれぞれに
「もっと気にかけてあげていれば…。」
「ただ抱きしめてあげたいです。」
「もう何年も連絡がつかなかったけど、もっと熱心に探すべきだった。」
と語ります。
何故、後味が悪かったのか・・・
”事件被害者というだけで、路上生活者の死に社会性を持たせて、そのプライバシーを世間の目に晒す、というのが番組の実態で、それに加担していることに気が付かない鈍感さに不快感があったのかな。
後日NHKサイトに番組の紹介があり、アクセスの多いコンテンツになっていました。
これを読んで、番組では、亡くなった方のプライバシーをかなり公開しており、そのスタンスは「彼女は死の前までは路上生活者ではなかった。」「明るく積極的に生きていたのになぜこんな事になったのか。」「いつでも誰にでも起こってもおかしくない身近な問題」として取り上げていたようです。
[Ⅰ] 被害者のように、ひたむきに生きてきても様々なアクシデントや社会情勢(この場合はコロナ禍での非正規労働者の失職)が重なって、あっという間に生活の基盤をなくしてしまう。誰にでも起こりうる身近な話だ。
更に、もう一つのスタンス。
[Ⅱ] 何人もの人がバス停にある固いベンチに腰掛けたまま寝ている姿を、何回も目にして気にかけていたのに、誰も行動しなかった。気にはなったが、声をかけて良いものか逡巡して、行動がおこせなかった・・・。こういうケースにいつ遭遇するか、誰にでも起こりうる話だ。何が出来るのだろう、何をすべきなのだろう。
番組はこの2つの視点で番組タイトルに「~彼女の死が問いかけるもの」とつけています。
何という不遜でしょうかね。
彼女は何も語らず問いかけもせず逝った。「本人にとって予期せず訪れた犯罪被害者としての死、そしてその人生」をいかなる味付けでも料理してはならない、と思うのです。
このコンテンツを読むと、記者本人は自覚していないようですが、ここまで行動したモチベーションは「この女性はどうしてこういう事になったのか!?」という野次馬的興味でしかないのです。
記者が社会的意義を見出して、善意で[Ⅱ]を問題提起したかったとしても、関わった人たちの話を通して被害者の人生を炙りただす必要性はないのです。
この番組の制作記者が社会性を見出すべきはむしろ、犯罪被害者の死に至るまでの人生ではなく、「邪魔だったから」と殴り殺した加害者の方です。
ひっそりとベンチで夜を過ごしていた60代女性を殴りつける暴力にこそ目を向けるべきです。
番組は、60代女性が人知れず都会のバス停で殴り殺された、一体どういう人だったのか、というただの野次馬でしかなく、それを親族(弟さん)や同級生に語らせるという手間ひまかけて、被害者女性の死、ひいては人生を無作法に晒していたのです。
後味が悪いのも当然です。
事件で加害者と被害者の関係を明らかにする必要がある場合を除き、誰も犯罪被害者のプライバシーを暴き、その尊厳を侵すことは許されない。
番組担当・社会部 記者徳田隼一さん、社会部 記者岡崎瑶さん
問題提起のつもりでも、おためごかしでしかない。それが自覚出来ない薄っぺらい自らのアイデンティティを恥じろ、とババアはわめきたてたい。
放送倫理に引っかからないのか。あからさまに倫理逸脱しているでしょうが。